今日は終戦記念日。毎年この日になると、父や母、そして祖父母が生きてきた時代のことを思い出します。父は昭和17年(1942年)、母は昭和15年(1940年)生まれ。ふたりとも戦争のただ中に生まれた世代です。
父の話 〜戦中の北海道〜
父は北海道の生まれ。戦争が始まった翌年に生まれたので、記憶はほとんどないそうです。それでも、「どこの家も食べ物が足りなくてね」と、なぜか笑顔で話します。栄養失調になったことも、どこか懐かしそうに。
そして、祖父(父の父)が戦地へ行った話。これは、僕が直接おじいちゃん本人から聞いたものでした。重苦しい語りではなく、どこか誇らしげな表情で静かに語るおじいちゃんの姿に、子ども心に「あれ?楽しそうだな」と思ったのを覚えています。
戦争の末期には北海道にも空襲があり、幼い子どもを連れて逃げる祖母の苦労を想像します。父がそのことを話すときの声は淡々としていて、日々の暮らしの延長のように聞こえました。
母の話 〜東京での空襲とその後〜
母は東京・大崎駅の近くで、8人兄妹の末っ子として育ちました(男1人・女7人)。東京大空襲の夜、母は上のお姉さんに背負われて防空壕へ必死に逃げたそうです。
家は全焼。残った土台の上に瓦礫の板を組み合わせて家を建て直しました。隙間だらけで冬は雪が吹き込み、玄関代わりの板が風で倒れてくるので、足で押さえながら寝ていたという話も、母はどこか笑い混じりに語ります。
土地は借地。戦後の混乱期には各地で土地の奪い合いがありましたが、地主さんから「住み続けて土地を守ってほしい」と頼まれ、家族はそこで暮らしを続けました。
戦後の混乱と怖い出来事
戦後まもない頃、買い物帰りの祖母が、草むらに潜んでいたアメリカ兵に襲われたことがありました。その話をする母は、一瞬だけ表情を曇らせたあと、なぜか笑ってこう続けます。
「顔が倍くらいに腫れちゃってねぇ、見てられなかったのよ」
小さかった母にはどうすることもできなかったけれど、兄と姉が大声を上げて駆けつけ、兵士を追い払った——その部分を語るとき、母は少し誇らしそうです。怖い記憶の中にも、兄妹で守り合ったという救いがあったのかもしれません。
家族の暮らしの変化
戦後、羽田空港の近くに住んでいた母の姉たちは、空港がアメリカ軍の管理下に置かれることになり、1週間以内の退去を命じられました。家財道具はリアカーに積めるだけ積んで近所へ引っ越し。
さらに、一番上の姉の夫(義兄)は東京湾で海苔漁師でしたが、滑走路の拡張で漁の仕事を失いました。大変な変化の中でも、家族はどこか笑いながら「リアカーに乗り切らなくて、全部持っていくのは諦めたよ」と話してくれます。苦労の中にも、笑ってしまう瞬間がある——それが、我が家の戦争の話にいつも漂う空気です。
想いを巡らせる終戦の日
我が家の戦争体験談には、不思議と笑顔や笑い声が混ざっています。つらい思い出をそのまま語るより、少しでも軽く、明るく伝えたいという気持ちなのかもしれません。その明るさの裏に、どれほどの大変さがあったのかを思うと、胸がきゅっとなります。
もし両親や祖父母があの時代を生き延びていなければ、今の僕はいません。感謝と複雑な思いが同時に押し寄せます。
祖父母は、僕にとっては優しいおじいちゃん・おばあちゃんでした。でも若い頃、どんな日々を過ごし、何を見て、何を感じてきたのか。今だからこそ、その重みを少し想像できるようになりました。
あと20年あまりの自分の人生を、どう生き、どのように終えるのか。終戦の日は、そんなことまで考えさせてくれます。

※第二次世界大戦は一般に1941年〜1945年。
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