僕はなぜ生まれて、どこへ向かっているのか?

思うこと
なおすけブログ

最近、自分の「役目」について考える時間が増えた。

何かきっかけがあったわけじゃない。
先日、占いや予言の話をブログに書いたけれど、それが心のどこかに引っかかっていたのかもしれない。

ジャンルでいえば、スピリチュアル
昔の僕だったら、「そういうの、ちょっと苦手なんだよね」で終わらせていた話だと思う。

若い頃は「やりたいこと」だけで生きていた

振り返ると、若い頃はそんなこと一切考えていなかった。「自分は何のために生まれたのか」なんて、そんな問いを立てる余裕もなかったし、必要も感じなかった。

ただ目の前のやりたいことをやって、あっちこっちにぶつかりながら、生きること自体が忙しかった。目標も夢も「将来こうなりたい」というより、「今これがやりたい」の連続だったように思う。

でも、年齢を重ねた今、あの頃の熱量が自然と落ち着いてきている。「心の底からこれがやりたい!」という衝動は少なくなって、日々の生活を穏やかに送っているだけで、1ヶ月、1年があっという間に過ぎていく。

あふれるスピリチュアルな情報と、僕の距離感

ネットを見れば、スピリチュアルな情報はいくらでも出てくる。
「人生のシナリオは生まれる前に自分で決めてきている」
「魂の成長のために今世を生きている」
「家族も自分で選んできた」……

読みながら、「へぇ、そういう考え方もあるのか」とは思うけれど、どこか現実味がなく、占いと同じく「そうかもしれないけど、実感はないなあ」で終わってしまう。

でも、もしそれが本当だとしたら──
僕は生まれる前に、どんな「人生の設計図」を描いたんだろう?

何のために生まれたのか?

今の僕には、子どもがいるわけでもない。
両親はありがたいことに元気で、介護の必要もない。
日常生活も特に大きな不満はなく、むしろ静かで平和な時間が流れている。

だからこそ、時々ふと思うのだ。
自分は何のために生まれたのか?
僕の役目って、何かあるのか?
それとも、ただ生まれてきただけなのか?

死について考える夜もある

もし平均寿命で死ぬとすれば、あと30年くらい。
そう考えると、ふと死に際のことが頭をよぎる。
どこで、誰と、どんなふうに死ぬんだろう。
そのとき僕は、何を思っているだろう。

たとえば、占いでは「〇〇歳に転機がありますよ」と言われたりするけれど、それも“シナリオがある”という考え方とつながっているような気もする。
だとすれば、もう転機は過ぎたのか? それとも、まだ何かあるのか?

もし「役目」に気づけたら

仮に、あと数年のうちに「これが自分の役目だ」と確信するような瞬間が訪れたとしたら、僕はどんな気持ちになるのだろう。
納得して、満たされるのか。
それとも「え、これがそうなの?」と拍子抜けするのか。
あるいは、何かを悔やむのか──

そんなことを、夜の静けさのなかでぐるぐると考えてしまう。
考えても答えが出るわけじゃないのに、不思議とそういう時間が嫌いじゃない。

そして、また今日が始まる

結局のところ、役目があるのか、ないのかも分からないまま、朝は来る。
散歩に行くまる(※柴犬)に急かされて、バタバタと一日が始まり、気づけば夜になる。

そんなふうに、人生は毎日少しずつ続いていく。
もし何かの「答え」に出会えたら、その時はきっと、またここに書き残しておこう。

役目があるかどうかは、わからない。
でも、「問い続けること」そのものが、僕の役目の一部かもしれない。

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